京都の人は見栄張ってるかもしれない件。
京都人の地域カーストを書いた漫画が話題について,前に別所に記事投稿した。
ここで,京都の立地最強クラスで御所の裏手の天正の頃からのお宅が出ていた。室町の頃からでないと京都人扱いされないとか,古くからある自慢を耳にする事がある。一方,室町から残っていると称してるのは嘘が多くて大半が江戸以降だとかも聞く。で,本当の所どうなんだろうか。
大林組の広報誌:季刊大林の最新号No.57の特集は「秀吉の普請」だった。この中で「秀吉のつくった京都」という記事があり,秀吉以前の京都がどのような状態だったかがうかがい知れる。
当初朱雀大路を中心に東京極大路と西京極大路に挟まれて平安京は都市計画された。西側の長安と呼ばれた街区は後に寂れ,東側の洛陽と呼ばれた街区のみとなって洛中洛外の言葉の元となった。室町時代に東側の街区の西端は朱雀大路からさらに東の大宮通りにまで後退し,さらに戦国時代には上京と下京にわかれ両者はただ道一本で結ばれるまでに縮小してしまっていた。当時の京都を描いた「洛中洛外図屏風」には上京・下京の市街地を取り囲むように塀・門があり,その外側に農地が広がるさまが描かれている。
つまり,図の上京惣構・下京惣構の区画外には室町以前の家が残っている筈は無い!!!ということだ。京都をぐるりと囲む御土居堀を秀吉が作ったのが天正19年なんで,天正からを称されると本当か嘘かは分からない。その前の年号:元亀まで室町幕府があり,天正は信長の時代からである。元亀よりはそっちの方が語感が良いから天正からと称するのが好まれているのだけ,かもしれない。
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